滝野が「じいちゃん」と呼ぶ人は、この世に一人しかいない。
母方の祖父である。
父方は「おじいちゃん」であって、「じいちゃん」ではない。
滝野はこの「じいちゃん」をひどく尊敬していて、
「この人みたいになりたい」と常々思っているのだ。
では、その「じいちゃん」はどんな人だったか。
俺の記憶の中にある「じいちゃん」は、まず間違いなく
直立していない。歩いていても、どこかおぼつかない。
いつだって酒と煙草のにおいをプンプンさせていて、
そう、彼はアルコール+ニコチン中毒者だったのである。
俺が実家に遊びに行くと、「じいちゃん」は必ずどこか、
隅っこあたりで、酒瓶やビール缶を片手に酔いつぶれていた。
彼がくつろぐ部屋の壁紙は煙草のために黄色く変色し、
入っただけでもうっすらと酒と煙草のニオイがする。
ばあちゃんに言われて起こしに行くと、隅っこのあたり、
着ている布の目地まで酒と煙を染み込ませたようなニオイを
させて、べたりと寝転がっているという人であった。
それをゆさゆさと揺さぶって起こすと、じいちゃんはまず、
濁った目で俺を見て、「おお、暁、来たんか」と笑う。
それから時々、つけっぱなしだった携帯ラジオの電源を切る。
そして、ついさっきまで酔いつぶれていたのが嘘のように
やたら元気良く立ち上がり、「カキ氷食いに連れてったる」
と玄関に向かうのである。千鳥足で。
家族が「酒飲み過ぎたらあかんよ」と忠告して、そのたびに
「うるさい」と返すのだが、何故か俺と母が注意した時に限り
「はい、すみません、すみません」と異様に腰が低くなる
不思議な人であった。
とはいえ母方の実家は遠かったので話すこともほとんどなく、
俺が中学一年生の時に亡くなってしまったので、
それだけならば憧れることなどなかったに違いない。
俺が「じいちゃん」に憧れるようになったのは、彼の死後
数年が経過してからのことである。
じいちゃんは死ぬ前に、本を出していた。
商用ではなく、身内に配るための自費出版である。
ハードカバーの黒い表紙に薄紙をかけられたその本は、
今もうちの本棚に眠っている。
本の内容はじいちゃんが若い時分から書き溜めてきた俳句を
まとめたもので、実は俳句雑誌などにも掲載されていたらしい。
だが内容を解するには俺はまだ小さく、その本について
じいちゃんと語るということは出来ないまま終わっていた。
読んでみて初めて、じいちゃんという人に興味を覚えた。
聞いて回ったら、色んな人が色んなことを教えてくれた。
母方の実家は、伊勢湾に浮かぶ小さな島にある。
戦術上利用価値があるでもなく、農業をするにも不向きな立地の
その島は、昔々から海産物を頼りに独特の風習を築いてきた。
じいちゃんも例に漏れず、海産物加工業を家業とする家の
息子として生まれてきたという。
と言っても戦時中のことであるから、仕事の内容は海草や
ジャコを手作業で日干しにするというもの。
やたらと学に長けたじいちゃんは、戦争に駆り出されることも
なく大学まで進み、その間に戦争は終戦を告げていた。
そして大学を出たじいちゃんは、家業を継いで真っ先に
自宅を小さな工場へと改装してしまったそうだ。
自宅を工場に。ブっ飛んだ発想である。
しかし商品の大量生産を可能にしたじいちゃんは
工場制作費の元をとって余りある利益を叩き出し、
島でも名の知れた小金持ちとなった。
これだけだったら、俺は「へぇ」と関心するだけで
話を終わらせていたかも知れない。
母が小さい頃はちょっとしたお嬢様だったことなど、
方々で聞いていたからである。
しかし、じいちゃんは更にとんでもない奴だった。
加工業に従事していた人達が、じいちゃんに倣う形で
次々に機械を導入し量産を始めた頃、彼はあっさりと
自分の工場を手放したのだ。
決して事業が廃れ始めたワケではない、むしろ全盛と
言えたであろう時期に、である。
当時の日本は物質的にも豊かであると言える程度に成長し、
家族旅行なるものも盛んに行なわれるようになっていた。
じいちゃんはそこに目をつけて、島で初めての観光旅館を
作ったのだ。
不便な島であるから、送迎車完備(島で初の車だったらしい。
風呂完備。電話線も有り。カラーテレビも置いた。
工場を売った金でそういった準備をしたものだから、
失敗していたら目も当てられない状態になっていたことは
間違いなかろう。
だがじいちゃんは思い切りよく旅館を作り、
それで成功しちまったんである。
島に訪れる人は増え、旅館の名とともにじいちゃんの名前も
島中に知れ渡り、じいちゃんは世に言う成功者になった。
観光業が盛んになり、観光に訪れた人々のための施設や
名所案内も作られるようになったのが80年代後半のこと。
そして。
彼は90年代に入るなり、全てを売り払ったのである。
人々の旅行先が国内から海外へと移り始めた矢先、
島が観光地としての価値を失う一瞬前という、見事なまでの
タイミングの良さであった。
だから今、残された祖母は、彼が旅館を売って建てた家で
ひっそりと暮らしている。
それでも余りあるであろう遺産は、島に寄付されたらしい。
じいちゃんが、そうしてくれと遺言を遺していたからだ。
彼が死んだのは不幸な偶然が重なっての事故が原因だったが、
それでも遺書など遺しておくあたりが抜け目ない人である。
持っていたものを簡単に捨てて、新しいものを掴みに行く。
その生き様は危なっかしかったかも知れないが、格好いい。
そして生まれた土地に誇りと愛着を持ち、島を離れることなく
長年に渡って俳句に詠み続けた、その姿を尊敬してもいる。
小説書く身として、俺も死ぬ前に一冊の本にできる程度には
書きたいな、と思う。
記憶の中のじいちゃんはいつだって酔いつぶれ、
やたら娘や孫に甘いだけのだらしない人だったが、
あのとろんとした目には世間はどう映っていたのだろう。
今更興味が湧く。
生きていたら、一緒に酒でも飲みながら
話をしてみたかったな、と思う。
今の島は、もう観光地としては廃れてしまっていて、それでも
諦め悪くビーチを整備したり遊歩道を作ったりしている。
じいちゃんが俳句に詠んだ景色のひとつひとつが、
その開発事業に踏み潰されていく様を、毎年目にする。
去年はじいちゃんの旅館の前の浜が潰されていたから、
次に行くときは氷屋の脇の林もなくなっているだろう。
そんなことをして、あの島があの島であるという特徴を
消し去って、どんな人が来るようになると言うんだろう。
お洒落で現代的なリゾートなら、他所に腐るほどあるのに。
その景色を見て、ばあちゃんは泣いていた。
島の、その時々の情勢を見極めて生きてきたじいちゃんなら
何て言うのだろう。
聞けないのがちょっと残念である。
母方の祖父である。
父方は「おじいちゃん」であって、「じいちゃん」ではない。
滝野はこの「じいちゃん」をひどく尊敬していて、
「この人みたいになりたい」と常々思っているのだ。
では、その「じいちゃん」はどんな人だったか。
俺の記憶の中にある「じいちゃん」は、まず間違いなく
直立していない。歩いていても、どこかおぼつかない。
いつだって酒と煙草のにおいをプンプンさせていて、
そう、彼はアルコール+ニコチン中毒者だったのである。
俺が実家に遊びに行くと、「じいちゃん」は必ずどこか、
隅っこあたりで、酒瓶やビール缶を片手に酔いつぶれていた。
彼がくつろぐ部屋の壁紙は煙草のために黄色く変色し、
入っただけでもうっすらと酒と煙草のニオイがする。
ばあちゃんに言われて起こしに行くと、隅っこのあたり、
着ている布の目地まで酒と煙を染み込ませたようなニオイを
させて、べたりと寝転がっているという人であった。
それをゆさゆさと揺さぶって起こすと、じいちゃんはまず、
濁った目で俺を見て、「おお、暁、来たんか」と笑う。
それから時々、つけっぱなしだった携帯ラジオの電源を切る。
そして、ついさっきまで酔いつぶれていたのが嘘のように
やたら元気良く立ち上がり、「カキ氷食いに連れてったる」
と玄関に向かうのである。千鳥足で。
家族が「酒飲み過ぎたらあかんよ」と忠告して、そのたびに
「うるさい」と返すのだが、何故か俺と母が注意した時に限り
「はい、すみません、すみません」と異様に腰が低くなる
不思議な人であった。
とはいえ母方の実家は遠かったので話すこともほとんどなく、
俺が中学一年生の時に亡くなってしまったので、
それだけならば憧れることなどなかったに違いない。
俺が「じいちゃん」に憧れるようになったのは、彼の死後
数年が経過してからのことである。
じいちゃんは死ぬ前に、本を出していた。
商用ではなく、身内に配るための自費出版である。
ハードカバーの黒い表紙に薄紙をかけられたその本は、
今もうちの本棚に眠っている。
本の内容はじいちゃんが若い時分から書き溜めてきた俳句を
まとめたもので、実は俳句雑誌などにも掲載されていたらしい。
だが内容を解するには俺はまだ小さく、その本について
じいちゃんと語るということは出来ないまま終わっていた。
読んでみて初めて、じいちゃんという人に興味を覚えた。
聞いて回ったら、色んな人が色んなことを教えてくれた。
母方の実家は、伊勢湾に浮かぶ小さな島にある。
戦術上利用価値があるでもなく、農業をするにも不向きな立地の
その島は、昔々から海産物を頼りに独特の風習を築いてきた。
じいちゃんも例に漏れず、海産物加工業を家業とする家の
息子として生まれてきたという。
と言っても戦時中のことであるから、仕事の内容は海草や
ジャコを手作業で日干しにするというもの。
やたらと学に長けたじいちゃんは、戦争に駆り出されることも
なく大学まで進み、その間に戦争は終戦を告げていた。
そして大学を出たじいちゃんは、家業を継いで真っ先に
自宅を小さな工場へと改装してしまったそうだ。
自宅を工場に。ブっ飛んだ発想である。
しかし商品の大量生産を可能にしたじいちゃんは
工場制作費の元をとって余りある利益を叩き出し、
島でも名の知れた小金持ちとなった。
これだけだったら、俺は「へぇ」と関心するだけで
話を終わらせていたかも知れない。
母が小さい頃はちょっとしたお嬢様だったことなど、
方々で聞いていたからである。
しかし、じいちゃんは更にとんでもない奴だった。
加工業に従事していた人達が、じいちゃんに倣う形で
次々に機械を導入し量産を始めた頃、彼はあっさりと
自分の工場を手放したのだ。
決して事業が廃れ始めたワケではない、むしろ全盛と
言えたであろう時期に、である。
当時の日本は物質的にも豊かであると言える程度に成長し、
家族旅行なるものも盛んに行なわれるようになっていた。
じいちゃんはそこに目をつけて、島で初めての観光旅館を
作ったのだ。
不便な島であるから、送迎車完備(島で初の車だったらしい。
風呂完備。電話線も有り。カラーテレビも置いた。
工場を売った金でそういった準備をしたものだから、
失敗していたら目も当てられない状態になっていたことは
間違いなかろう。
だがじいちゃんは思い切りよく旅館を作り、
それで成功しちまったんである。
島に訪れる人は増え、旅館の名とともにじいちゃんの名前も
島中に知れ渡り、じいちゃんは世に言う成功者になった。
観光業が盛んになり、観光に訪れた人々のための施設や
名所案内も作られるようになったのが80年代後半のこと。
そして。
彼は90年代に入るなり、全てを売り払ったのである。
人々の旅行先が国内から海外へと移り始めた矢先、
島が観光地としての価値を失う一瞬前という、見事なまでの
タイミングの良さであった。
だから今、残された祖母は、彼が旅館を売って建てた家で
ひっそりと暮らしている。
それでも余りあるであろう遺産は、島に寄付されたらしい。
じいちゃんが、そうしてくれと遺言を遺していたからだ。
彼が死んだのは不幸な偶然が重なっての事故が原因だったが、
それでも遺書など遺しておくあたりが抜け目ない人である。
持っていたものを簡単に捨てて、新しいものを掴みに行く。
その生き様は危なっかしかったかも知れないが、格好いい。
そして生まれた土地に誇りと愛着を持ち、島を離れることなく
長年に渡って俳句に詠み続けた、その姿を尊敬してもいる。
小説書く身として、俺も死ぬ前に一冊の本にできる程度には
書きたいな、と思う。
記憶の中のじいちゃんはいつだって酔いつぶれ、
やたら娘や孫に甘いだけのだらしない人だったが、
あのとろんとした目には世間はどう映っていたのだろう。
今更興味が湧く。
生きていたら、一緒に酒でも飲みながら
話をしてみたかったな、と思う。
今の島は、もう観光地としては廃れてしまっていて、それでも
諦め悪くビーチを整備したり遊歩道を作ったりしている。
じいちゃんが俳句に詠んだ景色のひとつひとつが、
その開発事業に踏み潰されていく様を、毎年目にする。
去年はじいちゃんの旅館の前の浜が潰されていたから、
次に行くときは氷屋の脇の林もなくなっているだろう。
そんなことをして、あの島があの島であるという特徴を
消し去って、どんな人が来るようになると言うんだろう。
お洒落で現代的なリゾートなら、他所に腐るほどあるのに。
その景色を見て、ばあちゃんは泣いていた。
島の、その時々の情勢を見極めて生きてきたじいちゃんなら
何て言うのだろう。
聞けないのがちょっと残念である。
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