時間などないかも知れないが。
2004年2月11日 日常一日に数件を書けるようにシステム変更されたこの日記。
だからって何件も書いてる俺は一体何がしたいんだろう。
ほけーっと考えてます、滝野ですコンバンハ(何度目だよ。
つまるところは「何も考えたくない」のだと思う。
滝野は本当に夢想家で、現実を見ておらず、かつ見る気もなく、
ただぼけぼけと自分の空想や他人の空想の中で生きている。
しかしながら今考えねばならんのは目の前の現実についてで、
本当なら日記など書いたり音楽を聴いたり漫画を読んだり、
躍起になってゲームに打ち込んだり、そんな暇はない。
現実を考え、見据え、強かに生きる術を身に付けて行かねば
ならん年頃であるハズなのである。
体を患った。心も患った。容姿は醜くなり、それと同じくして
精神もまた醜悪に屈折し歪曲していった。
だからどーした、と自分を叱らねばならん。
闇の住人を気取ったところで、朝はまた来るのだから、
その朝に備え、覚悟を決めておかなくては。
文章を書くということは好きだから、絵を描く時よりも
無心になるから、だから日記を書いて逃げる。
それでは駄目だと言うに。
時折こういう文を書いて、自分の首根っこを掴んで
引っ張り戻してやらなくてはいけない。
文を書いて逃げる自分が、あまり好きではない。
文を書いて、何とか引っ張り戻してやれる自分は
結構好きなのに、残念である。
▼ で。
文というのは思想・夢想の断片だと思う。
その時俺の脳に走っていたものを、そのままキーボードに
載せて作るのだから当然だ。
その断片は、残すのも、見返すのも、嫌ではない。
だが、写真は嫌いである。
時間の断片を克明に切り出す、写真というものの上に
俺自身の姿を残すのが大嫌いである。
風景や友人の写真は、懐かしい記憶の切片であり、
大切な宝物にもなり得るほどであるというのに。
思想の上の、夢想の上の自分は認められるくせに、
現実に存在する自分の姿を見るのは嫌いなのだ。
毎朝向かい合う洗面所の鏡だって、許されるなら
叩き割ってやりたいほどなのだ。
これでは駄目だと重々承知なのだが。
さあ、数学の問題集でも解くか。
だからって何件も書いてる俺は一体何がしたいんだろう。
ほけーっと考えてます、滝野ですコンバンハ(何度目だよ。
つまるところは「何も考えたくない」のだと思う。
滝野は本当に夢想家で、現実を見ておらず、かつ見る気もなく、
ただぼけぼけと自分の空想や他人の空想の中で生きている。
しかしながら今考えねばならんのは目の前の現実についてで、
本当なら日記など書いたり音楽を聴いたり漫画を読んだり、
躍起になってゲームに打ち込んだり、そんな暇はない。
現実を考え、見据え、強かに生きる術を身に付けて行かねば
ならん年頃であるハズなのである。
体を患った。心も患った。容姿は醜くなり、それと同じくして
精神もまた醜悪に屈折し歪曲していった。
だからどーした、と自分を叱らねばならん。
闇の住人を気取ったところで、朝はまた来るのだから、
その朝に備え、覚悟を決めておかなくては。
文章を書くということは好きだから、絵を描く時よりも
無心になるから、だから日記を書いて逃げる。
それでは駄目だと言うに。
時折こういう文を書いて、自分の首根っこを掴んで
引っ張り戻してやらなくてはいけない。
文を書いて逃げる自分が、あまり好きではない。
文を書いて、何とか引っ張り戻してやれる自分は
結構好きなのに、残念である。
▼ で。
文というのは思想・夢想の断片だと思う。
その時俺の脳に走っていたものを、そのままキーボードに
載せて作るのだから当然だ。
その断片は、残すのも、見返すのも、嫌ではない。
だが、写真は嫌いである。
時間の断片を克明に切り出す、写真というものの上に
俺自身の姿を残すのが大嫌いである。
風景や友人の写真は、懐かしい記憶の切片であり、
大切な宝物にもなり得るほどであるというのに。
思想の上の、夢想の上の自分は認められるくせに、
現実に存在する自分の姿を見るのは嫌いなのだ。
毎朝向かい合う洗面所の鏡だって、許されるなら
叩き割ってやりたいほどなのだ。
これでは駄目だと重々承知なのだが。
さあ、数学の問題集でも解くか。
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