パーペキ主義

2005年5月11日 日常
「完璧」と「パーフェクト」って同じ意味じゃないか。
合体させる意味あんのか疑問です。て言うか何で聞いたんだコレ。

今日はちょっと重い話をするよ★滝野ですコンバンハ!

 

 

 

頑張れと言われるのが苦しいと、ここに書いたことがある。

何故苦しいのか? それはプライドが高いから。

ものすごく飛躍してるようでいて、この二つは背中合わせなのだ。
自分はもっとできるはず、もっと沢山、もっと完璧に…
自分に対する無意識の過信と、そうあらねばと願う意識があるからこそ、

あれもこれも足りない、もっと優美に、かつ速く走れ。

そんなことを思う。

頑張れって言われると自分の頑張りが足りてないのかと感じて、
着けるはずのない「完璧」というゴールに向かって全力疾走してしまう。

それは地平線をゴールと定めたレースにも似て、終わることはなく、
走者の足をいたずらに食い潰していくだけだ。

 

おいコラ待て俺。

 

「頑張れ」って言葉の意味は一つじゃない。

「ベストを尽くせ」だったり「早く終わらせて寝ろよ」だったり、
「応援しているから」だったり、人により時により意味を変える。

それは背中を押す言葉だ。
マラソンのランナーに投げられる声援と同じなのだ。

ゴールできるように、勝てるように、祈りを込めて「頑張れ」と言う。
もっと早く走れんだろうが、って心無い声ももちろんあるけど、
親しい人たちはそんな意味でその言葉を口にするのではない。

無理して加速しろなんて誰も言わない。

いいよなテメェらは、口だけ動かしてりゃいいんだから。
言われなくても俺はいっぱいイッパイに頑張ってらァ!
そんな風に逆ギレる自分が、小さくて卑しい。

前に「頑張れって言われるのは嫌い」って書いたときに、
「本当は頑張り続けろと言って欲しい」とも書いた。
今も頑張っているから、認めて欲しいと思った。

なんのことはなくて、俺が気付いてなかっただけだ。
彼らの目に、俺はきちんと映っていて、だからこそ頑張れって
言ってもらえていたのだ。

みんなが背中を押してくれていた。
ペースを上げろとも、休むなとも言われてない。
俺が馬鹿だっただけで、ちゃんと、みんな見ててくれてた。

 

意味を勘違いして、勝手に突っ走ったのは俺だ。

完璧になりたい。そうなれるはず。そうならなければ。

悔しくて情けなくて、無理して加速してケ躓いて、

見事転んだ。

 

最近、なんとか立った。と思う。

高校出れねーとか、中卒で食ってくスキルないだろとか、フリーターに
しても体力資本なさ杉、とか、現実に追い立てられて、立った。

よろよろ走り出して、ペースもつかめてきたかなって感じて、
そこまで来てやっと分かり始めた気がする。
どう頑張っても、綺麗にも速くも走れない自分を、分かってきた気がする。

本当の本物の果てしないドン底ヒキー・すねかじり・ネトゲ廃人とゆー、
我ながらアレな経験をして、かつその状態から脱して初めて、
自分のことをちょっと分かった気がするのだ。

ド派手に転んで初めて、自分が格好良く走れないことを知った。
いや、前々から薄々気付いてはいたけど、身をもって理解した。

転んで身近から消えた人もいるし、ずっと居てくれた人もいる。
一人でも残ってくれていたら、それは充分過ぎるくらい幸せなことだ。
何人かのアテがあって、ほんの2年という時間のロス以外
損失もなかった俺は、かなりの幸せ者なはずだ。

応援されて「外野がガタガタ言ってんじゃねーよ!」ってキレるような
人間のままじゃなくて良かったと思う。
タイミング良く潰れてくれた精神と肉体に感謝だ。

 

「頑張る」って言葉はなんて不器用なんだろう。
国語辞典を引くと、「困難に耐え努力する」とか書いてある。

だから「頑張れ」って言われると、「困難に耐えろ努力しろ」って
言われてるよーな気がして辛くなってしまう。
こんなに耐えてんのにまだ耐えろとおっしゃるか!とキレたくなる。

そーじゃないんだ。その辛さに負けるなって伝えたいんだ。

だけど完璧主義っつーのは厄介で、自分の努力がいくらあっても
足りない気がするんだよ。

人間のすることが完璧なワケないのに、完璧になれないのが
自分の努力不足のせいだと思い込んでしまう。
他人が見れば許容範囲の失敗だって、必要以上に気に病む。

それで「頑張れ」なんて言われた日にゃ、「やっぱり足りてないんだ」
とか考えて押し潰されてしまう。

この手の人、つまり俺のご同類(死)には、無責任な「頑張れ」は
もちろん御法度だ。けど「頑張らなくていいよ」ってのも同じくらい御法度。
その場合、堕ちるとこまで堕ちると思った方がいい。

他人に認められない、完璧でないことに意味などないのだから、
生きていくのに最低限のギリギリなことしかしなくなる可能性がある。
って言うか人によってはそれすらしなくなるかも知れない。

必要なのは、まず認めてあげることだ。
無条件の肯定じゃなくて、条件のある肯定。
その人そのものを肯定することには説得力も意味も、ない。

女性なら心当たりがあるんじゃないだろーか。
「綺麗だ」とか言われると「自分ではココが気に入らないのに」
なんて心理が多かれ少なかれ、時には無意識で働いてしまい、
相手の発言を無責任なものと受け取ってしまう。
「綺麗な眉だね」とか「今日の髪頑張ってるねー」とか、
自信のあるポイントを言ってもらえると嬉しい。

イヤ無条件の肯定は、それはそれで愛情の形だし嬉しいんだけどさ。

完璧主義者は努力が好き、と言うより努力せずにいられない。
それでも完璧になれない自分に、苛立って焦っている。
「こんだけ頑張ってんのに、なんで?」って思いも溜まってる。

俺は学校の一時ドロップアウトで、初めて気付いた。
ああ、自分は学校行くのにこんな頑張ってたんだー……とか。
諸々の方面で、自分に不相応の目標を作っていた。
それに向けて頑張るのはしんどくて、達成できない自分が苦しかった。
誰にも指摘されなかったけど、自分で気付けた。2年かかった。

自分じゃどこまで頑張ればいいのか分からないんだよ。手抜きができない。
褒めるトコ褒めとかないと、際限なしの努力で自分を食い潰してしまう。

だからまず、充分な部分を褒めてやろう。
よくやったから、もう頑張らなくてもいいよって。

俺は残念なことに自力蘇生だったので、褒めてもらう機会はほとんど
存在しなかったのだが。
(そういう意味で仲間と食う飯が自分へのご褒美だ。うわ死にてぇ(何)

そんで足りない部分は、持ち前の努力向上の心で補えばいいのだ。
そういう点を指摘して一緒に考えてくれる人や、支えてくれる人がいるのは、
大きい。あったかい。ありがとう。お陰で今日も生きてます。

 

最近、「頑張れ」を「応援してるよ」に脳内変換できるようになった。
っつかそれが相手の意図した言葉の解釈だと思うのだが。

完璧主義者も、意識的には、やめ。
だって楽しくないもん。あれも駄目これも駄目で。

無意識に「駄目ねェ……」って思うことは山ほどあるけど、
駄目なのは最初からだろ!って悟りを得つつある今日この頃。

もーちょっと楽に生きられるようになるといいなぁ。

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