↑↓↑という亀裂

2006年12月12日 日常
僕は球技ができない。

動体視力、運動神経、距離感覚、諸々の必要能力を異常なまでに
欠いているのが原因である。おかげさまで小学生の頃から、
体育の時間は無駄にボールに激突される変な奴であった。

頭部へのボール激突率が半端じゃない、滝野だよコンバンハ。

 

しかしそれらの能力は、子供の頃から球技に慣れ親しむことで培われるのが
普通なのだ。多少の差異はあれど、僕ほど「できない」人は珍しいと思う。

少なくとも、飛んでくるボールを前にして距離感が掴めず
そのまま衝突する人はあんまり居ないだろう。
僕も自分自身を除けば、そんな人間は思い当たらない。

では何故そうなっちまったのかといえば、僕が「球技をしなかったから」。
つまり参加しないこと、逃げ出すことに全力だったのである。

ドッジボールなんかやると最後までコートの隅に残ってる子だったが、
逃げる能力云々というより「絶対にボールを取らない安全パイだから」
スルーされていたのだろう。
バスケなんかやると、センターライン付近をなかなか離れない。
唯一「俺このポジションやります!」と立候補したのはサッカーの
ゴールキーパーであるが、これは自主的にボールを追う必要がないので
ハマり位置だったと言える。何故か顔面で止めてたのが自分でも印象深いが。

 

僕が球技を拒絶する理由、それは「必ず勝敗が存在するから」だ。

僕は負けるのが嫌いだ。勝つのは嬉しい。
そして、他人に勝って優越感を覚える自分が嫌いである。

三番目のひどく穿った勝敗観のために、僕は負けることはできても
勝つことができないのだ。いや、能力があれば勝つこと自体は可能だが、

 ↑↑↑かーてーたー!という喜び
 ↓↓↓他人を負かして喜べる自分に失望
 ↑↑↑チームメイトは喜んでるし盛り下げちゃ駄目ダメ

こんな感じに感情が解離してしまい、自分でも喜んでるんだか
何なんだか分からなくなってくる。

ちなみに個人競技では三番目の過程が抜けるために沈みっぱなし、
負けた場合はもちろん「↓↓↓力が及ばない自分に失望」一択。

こんな感覚を抱きつつ球技を楽しめる人間がいるのなら、是非紹介して欲しい。

 

その価値観ゆえ、僕の趣味は非生産的、かつ破滅的な方向にしか
向かえないのだなと、しみじみ実感している今日この頃。

 

人に喜んでもらうと、「相手を喜ばせることができる自分」に
価値を見出せた気がして嬉しくなっちゃうのー。
だから人に優しくする自分は、本当は自分に優しいだけなのー。

そんなコトにいちいち傷付いていたら、社会の中で生きていけないのー。
なのに、気付いていても開き直って優しくする強さが、僕には足りないのー。

もっと強く、それか気付かないで済む程度に愚鈍になりたかったのー。

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