僕の名前なんかどうでもいいのかも知れない
2006年12月14日 日常近所に一人の婆ちゃんが住んでいる。そして、少しボケている。
家庭菜園の趣味があって、お裾分けが我が家の食卓にもしばしば上る。
それが結構頻繁なのだが、電話をもらった時点で母の手が塞がっていると
僕が婆ちゃんの家まで行くことになるワケだ。
でも勿論、「もらうもんもらってハイさようなら」とはいかない。
年配の方に何故か好かれる滝野ですコンバンハ。
この婆ちゃん、旬の野菜を譲って下さるのはとても助かるのだが、
一度捕まると30分ほどは逃げることができないのだ。30分というのは、
つまり婆ちゃんが立って話ができる限界時間だったりもする。
母も最初のうちは夕食の準備をする手を止めて出かけていたのだが、
そういう理由で、何か家事をしている最中は僕が行くことになった。
僕は現在無職のヒキコモリだから、別にそれでも困らない。
本を読むのをやめればいいだけの話だ。
で、カゴなんか持ってテクテクと、徒歩1分の婆ちゃんの家に向かうと、
婆ちゃんは既に門のところでスタンバっているのだった。
母が電話口で、「娘の暁をやりますから」と言っているはずなのだが、
婆ちゃんは僕のことを母の名で呼ぶ。
短ければ20分、下手すると小一時間にまで伸びるその会話の中で、
僕はだいたい10分おきくらいに「暁ですよ、あ、き、ら」と訂正する。
聞き入れられたことは一度としてない。
母と僕の名前は実際よく似ていて、一文字しか違わないのだが、
婆ちゃんにとってはそういう次元の問題じゃないのだろう。
僕と母の区別がついていないのか、つける必要がないのか。
「野菜が余っているから」というのは口実で、話をする相手が
欲しいのだと思う。家に一度あがったら帰してもらえる気がしない。
そしてその相手は、きっと僕だろうが母だろうが構わないのだった。
僕と母とは名前の他は似ても似つかない親子だが、それでも蛙の子は蛙、
何故か年配の方に好かれるというのが共通点として挙がる。
理由を聞いてみたところ、「きちんと会話をしてくれるから」だそうだ。
僕と会話を弾ませるのは(オタクネタを除けば)至難の業だと思うのだが。
特に最近は、引きこもっていた弊害か、ただでさえ貧弱な会話脳が
どんどん退化してきている気がする。
とはいえ反応が薄いなりに一生懸命聞く姿勢はあるので、
それが彼ら・彼女らにとっては心地良いものなのだろう。
僕は相手を立てたり、大袈裟に驚いたりすることはできないが、
だからといって話を聞き流すほど人間腐ってない。
婆ちゃんの家には娘さん夫妻が住んでいる。
僕と歳の近いお孫さんもいて、子供の頃はよく遊んだ。
なのにどうして、僕の家に電話がかかってくるのだろう。
婆ちゃんは至極健康らしいが、それでも老いれば体は弱る。
膝の調子が悪かったり、足元がおぼつかない日もあって、
そういう時は門から玄関までの数歩の距離を送り届ける。
あの家の玄関が内側から開くのを、僕は見たことがない。
婆ちゃんが寒い中を、ずっと外に立っているというのに。
最近めっきり寒くなった。婆ちゃんが立ち話をできる時間も短くなった。
僕や母が話を聞けなくなったら、婆ちゃんはどうするんだろうかと考える。
要らぬ心配と分かりつつ、よそ様の家庭に首突っ込む気もないけれど、
だいたい三日おきに野菜をくれるご近所さんが僕は心配なので
何となく文章にしてみた。そんな今日この頃。
関係のある追記:
今日は枝豆もらいました(´゜∀゜`)季節はずれだけどうまー!
家庭菜園の趣味があって、お裾分けが我が家の食卓にもしばしば上る。
それが結構頻繁なのだが、電話をもらった時点で母の手が塞がっていると
僕が婆ちゃんの家まで行くことになるワケだ。
でも勿論、「もらうもんもらってハイさようなら」とはいかない。
年配の方に何故か好かれる滝野ですコンバンハ。
この婆ちゃん、旬の野菜を譲って下さるのはとても助かるのだが、
一度捕まると30分ほどは逃げることができないのだ。30分というのは、
つまり婆ちゃんが立って話ができる限界時間だったりもする。
母も最初のうちは夕食の準備をする手を止めて出かけていたのだが、
そういう理由で、何か家事をしている最中は僕が行くことになった。
僕は現在無職のヒキコモリだから、別にそれでも困らない。
本を読むのをやめればいいだけの話だ。
で、カゴなんか持ってテクテクと、徒歩1分の婆ちゃんの家に向かうと、
婆ちゃんは既に門のところでスタンバっているのだった。
母が電話口で、「娘の暁をやりますから」と言っているはずなのだが、
婆ちゃんは僕のことを母の名で呼ぶ。
短ければ20分、下手すると小一時間にまで伸びるその会話の中で、
僕はだいたい10分おきくらいに「暁ですよ、あ、き、ら」と訂正する。
聞き入れられたことは一度としてない。
母と僕の名前は実際よく似ていて、一文字しか違わないのだが、
婆ちゃんにとってはそういう次元の問題じゃないのだろう。
僕と母の区別がついていないのか、つける必要がないのか。
「野菜が余っているから」というのは口実で、話をする相手が
欲しいのだと思う。家に一度あがったら帰してもらえる気がしない。
そしてその相手は、きっと僕だろうが母だろうが構わないのだった。
僕と母とは名前の他は似ても似つかない親子だが、それでも蛙の子は蛙、
何故か年配の方に好かれるというのが共通点として挙がる。
理由を聞いてみたところ、「きちんと会話をしてくれるから」だそうだ。
僕と会話を弾ませるのは(オタクネタを除けば)至難の業だと思うのだが。
特に最近は、引きこもっていた弊害か、ただでさえ貧弱な会話脳が
どんどん退化してきている気がする。
とはいえ反応が薄いなりに一生懸命聞く姿勢はあるので、
それが彼ら・彼女らにとっては心地良いものなのだろう。
僕は相手を立てたり、大袈裟に驚いたりすることはできないが、
だからといって話を聞き流すほど人間腐ってない。
婆ちゃんの家には娘さん夫妻が住んでいる。
僕と歳の近いお孫さんもいて、子供の頃はよく遊んだ。
なのにどうして、僕の家に電話がかかってくるのだろう。
婆ちゃんは至極健康らしいが、それでも老いれば体は弱る。
膝の調子が悪かったり、足元がおぼつかない日もあって、
そういう時は門から玄関までの数歩の距離を送り届ける。
あの家の玄関が内側から開くのを、僕は見たことがない。
婆ちゃんが寒い中を、ずっと外に立っているというのに。
最近めっきり寒くなった。婆ちゃんが立ち話をできる時間も短くなった。
僕や母が話を聞けなくなったら、婆ちゃんはどうするんだろうかと考える。
要らぬ心配と分かりつつ、よそ様の家庭に首突っ込む気もないけれど、
だいたい三日おきに野菜をくれるご近所さんが僕は心配なので
何となく文章にしてみた。そんな今日この頃。
関係のある追記:
今日は枝豆もらいました(´゜∀゜`)季節はずれだけどうまー!
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