だからつまりね

2007年10月1日 日常
・○○ゆえに××である

目に見える事象から物事を証明するのは簡単です。

 

・△△でないのは××だからである

「ない」を「ある」から導き出すのは、少し骨が折れます。

気の遠くなるほど「我思う」をして、「ある」を取っ払った上で、
無形のはずの「ない」を析出させないことには始まらないからです。

 

哲学? 何それ勉強するもの? 滝野ですコンバンハ!

大学によっては「文学部の哲学科」なんてものも存在するのに、
世の哲学書がことごとく読みづらい文章なのは何故なんでしょうか。
その理論は言語の形でしか表現できないのだから、
理系数学系の書籍が読みづらいのとはワケが違うんだぜ?

書いている側に言わせれば、「無形の概念を表出させる上で、
最も伝達に適したツールが言語だっただけだ!」とかなんとか
お怒りになるのかも知れませんが。

 

それにしても「ない」というのはつまり無なのであるからそんなものは
「ある」ではないのであって、「ない」がないということは
全てが「ある」ことになるのだが、そこに「ない」ものが「ある」から
「ない」という概念が生まれてきたとも考えられるのであり、
無いが何でないのないない。

この迷走具合を何とかしたくて先人の知恵を借りようと思ったが、
面倒くさくて本なんか読む気になれねぇYO!

 

言葉が在るのは、言葉に表されるべきものが存在する場合だけ。

既存の言葉の多義性を利用してなお「しっくり来ない」時に、
新しい言葉がこの世に生まれ出づるのだとしたら──

「奇跡」という言葉があるのは、それが確かに存在するからで、
「やさしい」という言葉ひとつで済まされてしまう諸々は、
僕は大切だと思うのだが、世間一般ではどうでもいいのかも。

というようなことを、鉄筋コンクリート施工法の講義を聴きながら
考えていたりする今日この頃。

 

そういえば個人名って、「言葉」に属するもの?

「辞書には載っていない」「その音の示すものを広く認知されない」
ということは、言葉としての性質が非常に曖昧なのである。

でも、「その名前はアリ」「それはねーよ」という基準が世間一般に
あることから、ある程度は文化の中で言語的整合性を持っているとも
考えられる。

その音が正確にどの個人を示すものかはさておき、人の名前を聞けば、
僕らは一応「それはおそらく、ヒトの一個体を示すものだ」と
対象の姿をある程度補足できるのだから、

……言葉としての機能は果たしてることになるのか。どうなんだ。

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