なのだろう、という気はする。記憶と症状例を照らし合わせてみると、
鬱病診断のチェックシートと同じくらいには、レ印が付く。
自覚があるからどうなるというものではないのだけれど、
たぶん見た目には「空気の読めないただの人」なんだろう。
>私はラムレーズンでした。
この贅沢太郎! しかしあれは美味いものだ……
風邪っぴきで今日の抹茶アイス報告は中断中の滝野ですコンバンハ。
・不規則・流動的な生活に耐えられない
・異常なまでの興味・関心の偏り
・想像力の欠如
他、コレクション志向やボディタッチへの恐怖心等など、興味があれば
ぐーぐる先生にでも聞いてみて頂きたい。
おおよそどのような障害であるかはWikipediaを見るだけでも理解できる。
想像力の欠如というのは、例えば「俺はお前が嫌いだ」という発言から
相手がどのような感情を喚起されるかが想像できないのである。
客観的に見て、「嫌いだ」というのは僕の勝手な感情論であるから、
それが決して相手の価値を貶めるものではない……と僕は思うのだが、
しかし実際には「面と向かってそれを言うか」と落ち込んでしまうのが
一般的人間の感情であるので、その言葉は口にされるべきではない。
と、己の発言が他者に及ぼす影響について、僕は都合4行分の思考
(しかも過去の経験則と客観的情報に基づく推測)を必要とする。
これは想像と言うより能動的思考活動であって、僕の情報処理能力は
常にこうした思考に圧迫されているのであった。会話をすると異様に
疲労感を覚えるのも、おそらくはそのためであると考えられる。
他者との潤滑なコミュニケーションには一定のスピードが不可欠だが、
上記のような理由から、僕には安易に言葉を発することができない。
また、発言は著しく傍若無人であるか、もしくは極端に丁寧である。
前者は歯に衣着せなさ過ぎて異様な切れ味を誇る言葉のナイフであり、
後者はその危険性を緩和したいが故の言葉のオブラートの過剰包装だ。
「話しながら相手の心理を想像する」という能力を欠いているため、
どうしてもそうならざるを得ないのである。
沈黙すれば会話は成り立たず、発言すれば関係が破綻するという
ジレンマが常について回るため、僕はそもそも人間関係の維持が
どうにも苦手なのだった。
ただし何事にも例外はあるもので、現代において一定の言語的画一化が
為されているオタク世界、自分自身と興味関心を共有できる人とは
至極円滑にコミュニケーションが進む。
前者は予想外の出来事が起こりづらい閉鎖世界であり、
後者は単に話題の引き出しの数が多いからだ。
知識と考察が主体であり、個人の主観が入り込みづらい
領域であることも、関係しているのかも知れない。
僕を友人扱いしてくれる奇矯な人々なら、きっと覚えがあると思う。
生物学、ヒトの生殖と密接に関わる民俗学、自己実現という妄想について、
僕は異常なくらいの興味を抱いている。これらカテゴリに関しては、
その道のエキスパートには劣るにしろ、素人には明らかに不要な数の
引き出しを有している。
端的に言えばそれは「逸脱」であり、「普通ではない」のだ。
「症候群」などと言われると病気のように思われるし、そのように
診断が下される場面もあるのだが、そもそも「普通からの逸脱が
障害である」という規定自体がおかしくはないだろうか。
僕はその点に関しては、いささか懐疑的な感情を抱いている。
ただ、社会は「普通」であることを前提として成立しているのだから、
何とかしてその隙間に滑り込まなければ暮らしていけない。
「障害」とは優劣ではなく、マジョリティに即した社会の生活に
適応できるか否かの境界線なのだと考えれば、何となく納得が行く。
身体障害者が自分自身の体に折り合いをつけて日常生活を営まなければ
ならないのと同様、僕も偏った能力と向き合って暮らさなければならない。
普通になることは不可能であるとしても、普通を繕うのが
最善の策であろう、というのが現在の結論である。
と、結論を下して即座にそうなれるのならこれほど楽なことはない。
げにこの世は住みにくい、心からそう思う今日この頃。
自分自身への興味が尽きないというのは一見素晴らしいことのように
思われるが、「他人にさほど興味がない」ということでもあるのである。
鬱病診断のチェックシートと同じくらいには、レ印が付く。
自覚があるからどうなるというものではないのだけれど、
たぶん見た目には「空気の読めないただの人」なんだろう。
>私はラムレーズンでした。
この贅沢太郎! しかしあれは美味いものだ……
風邪っぴきで今日の抹茶アイス報告は中断中の滝野ですコンバンハ。
・不規則・流動的な生活に耐えられない
・異常なまでの興味・関心の偏り
・想像力の欠如
他、コレクション志向やボディタッチへの恐怖心等など、興味があれば
ぐーぐる先生にでも聞いてみて頂きたい。
おおよそどのような障害であるかはWikipediaを見るだけでも理解できる。
想像力の欠如というのは、例えば「俺はお前が嫌いだ」という発言から
相手がどのような感情を喚起されるかが想像できないのである。
客観的に見て、「嫌いだ」というのは僕の勝手な感情論であるから、
それが決して相手の価値を貶めるものではない……と僕は思うのだが、
しかし実際には「面と向かってそれを言うか」と落ち込んでしまうのが
一般的人間の感情であるので、その言葉は口にされるべきではない。
と、己の発言が他者に及ぼす影響について、僕は都合4行分の思考
(しかも過去の経験則と客観的情報に基づく推測)を必要とする。
これは想像と言うより能動的思考活動であって、僕の情報処理能力は
常にこうした思考に圧迫されているのであった。会話をすると異様に
疲労感を覚えるのも、おそらくはそのためであると考えられる。
他者との潤滑なコミュニケーションには一定のスピードが不可欠だが、
上記のような理由から、僕には安易に言葉を発することができない。
また、発言は著しく傍若無人であるか、もしくは極端に丁寧である。
前者は歯に衣着せなさ過ぎて異様な切れ味を誇る言葉のナイフであり、
後者はその危険性を緩和したいが故の言葉のオブラートの過剰包装だ。
「話しながら相手の心理を想像する」という能力を欠いているため、
どうしてもそうならざるを得ないのである。
沈黙すれば会話は成り立たず、発言すれば関係が破綻するという
ジレンマが常について回るため、僕はそもそも人間関係の維持が
どうにも苦手なのだった。
ただし何事にも例外はあるもので、現代において一定の言語的画一化が
為されているオタク世界、自分自身と興味関心を共有できる人とは
至極円滑にコミュニケーションが進む。
前者は予想外の出来事が起こりづらい閉鎖世界であり、
後者は単に話題の引き出しの数が多いからだ。
知識と考察が主体であり、個人の主観が入り込みづらい
領域であることも、関係しているのかも知れない。
僕を友人扱いしてくれる奇矯な人々なら、きっと覚えがあると思う。
生物学、ヒトの生殖と密接に関わる民俗学、自己実現という妄想について、
僕は異常なくらいの興味を抱いている。これらカテゴリに関しては、
その道のエキスパートには劣るにしろ、素人には明らかに不要な数の
引き出しを有している。
端的に言えばそれは「逸脱」であり、「普通ではない」のだ。
「症候群」などと言われると病気のように思われるし、そのように
診断が下される場面もあるのだが、そもそも「普通からの逸脱が
障害である」という規定自体がおかしくはないだろうか。
僕はその点に関しては、いささか懐疑的な感情を抱いている。
ただ、社会は「普通」であることを前提として成立しているのだから、
何とかしてその隙間に滑り込まなければ暮らしていけない。
「障害」とは優劣ではなく、マジョリティに即した社会の生活に
適応できるか否かの境界線なのだと考えれば、何となく納得が行く。
身体障害者が自分自身の体に折り合いをつけて日常生活を営まなければ
ならないのと同様、僕も偏った能力と向き合って暮らさなければならない。
普通になることは不可能であるとしても、普通を繕うのが
最善の策であろう、というのが現在の結論である。
と、結論を下して即座にそうなれるのならこれほど楽なことはない。
げにこの世は住みにくい、心からそう思う今日この頃。
自分自身への興味が尽きないというのは一見素晴らしいことのように
思われるが、「他人にさほど興味がない」ということでもあるのである。
コメント
むしろいやみに聞こえるほど文章を見れてるんだから
そんなに自閉度は高くないだろ……jk