BUMP OF CHICKENとの出会いは「K」だったなぁ、と
立花嬢の日記を見て思い出した。
ちなみに初聴時の感想は、「で、これどこのサークルの作品?」
すみませんバンプは好きですだいすきです、でも歌詞が若干その、
いわゆる一般人という、想像力ないしは創造力もとい妄想力を欠く
人々への配慮に欠けてはいませんでしょうか。
最近は大分大衆向けになったよね。街中でも普通に耳に入るし。
ピアスを外して丸二日が経過。
再び入れなおそうとしたところ、やけに強い手ごたえがあった。
原因は分かりきっていて、前回外した後──って言うか、最初に
ファーストピアスを外した時から、出血していたせいなんだ。
再び自分の手で薄皮を突き破る羽目になった。滝野ですコンバンハ。
確かに僕の体は貧弱だけれども、だからって皮膚の再生力まで
凡人以下とは思わなかったぜ……それともピアスを外す時に、
やり方がうまくなくて傷付けてしまったのかなぁ。
で、外出した先は病院だったりしたわけで。
心の風邪のことを、普通にWeb日記に書いていいものかなぁとは
毎度疑問に思うんだけれども、書かないでいるとまた忘れるので
つらつら文書を連ねておこうと思います。
その関係の本も読んで勉強中。
我が身と心に起きたことを、単なる災難と見るも、
いつかのモノダネとして温めるのも僕の勝手だ。
近頃は風呂場の剃刀に目が釘付けになる程度には疲れているけど、
感じるものは誘惑ではなく恐怖心であるので、たぶん問題ない。
精神は鬱状態でも、自傷や自殺に対する凄まじい抵抗心があるので、
そこんとこの理性を脳内物質の超分泌で吹っ飛ばされない限りは
分かりやすい自傷行為には出ないのだと思う。
代わりにあるのが、分かりやすい危険に対する無防備さ。
飛んでくるボールが避けられない、転んだ時に手をつけない。
不注意で自転車の目の前に飛び出すとかも、日常茶飯事だからね。
これは間接的自傷、鬱由来の現象として解説されるものらしいけど、
僕にとっては物心付いた時から当たり前のことなのでピンと来ない。
って言うかそうかこれ普通じゃなかったのか、みたいな。
もしかして僕は、生まれた時から死にたがりなのか。
とはいえ免許なんか取った日には確実に事故る!という確信ゆえに
教習所に通わぬことを誓い、車道を渡る時にはきっちり左右確認、
本当の死亡の危機に対してはきちんとした管理能力を発揮しているし、
何とも不思議な現象ではある。
そもそも鬱って何なんだろうか。
脳の分泌系に異常をきたす病、と解釈するのが目下最も妥当か。
だけど、それじゃ、人間の感情って一体何だ。
抗鬱剤でちょっと文章書く気力が湧いただけの患者が、
そんな疑問を投げかけておく。
「書くぞー」という方向性は、確かに僕が定めたものだけれど、
その気力は経口摂取された化学物質によってもたらされたもの。
ということは、今この文章を書く行動は、僕の意思で行われたことに
なるんだろうか?
間接的影響まで考慮するなら、薬自体は確かに僕の意思で摂取された
ものだが、強制的に注射されたとしても、僕は同じ行動を取っただろう。
緯度の高い土地に住んでいる人は、季節性の鬱病を発症しやすい。
例えば現代人の多くが幼少時の社会的学習によって、排泄行為を
恥ずかしくも気持ちがいいものだと感じているのと同じように、
僕らにとっては陽光を浴びることが「気持ちが上向く行為」として
遺伝子レベルで刷り込まれているんじゃないのか。
太陽を浴びると心が明るくなる、活動の気力が湧いてくる──
僕らが当たり前のものとして享受している、そんな「感情」の源泉が、
生物ホルモンと太陽光に制御された「何か」だと思うと少し気分が悪い。
生命とは、時間軸に沿って変遷する、不可逆・不可視の流動である。
鬱とは、生きる気力を失い、時に死にたいとさえ願う精神の病である。
死もまた生命にとって必然の流動形態の一つであると考えるのならば、
鬱はある意味、生き急ぎならぬ「生命の流れ急ぎ」であるとも言える。
しかしそれが個の生命の意思と相反するという事実は無視し難い。
生存したいという欲求に対して、正反対のベクトルを持つことは、
本当に「病」なんだろうかなぁ。
山あり谷あり、楽あれば苦あり、人間の感情が常に表裏一体であると
すれば、死の欲求は存在しない方がおかしいということになる。
そういえば、「病」も「死」も、正常な生存に支障がある
(または生存していない)状態を指す言葉だ。
ということは、「鬱≒死への欲求」が感情現象として普遍的な
存在であったとしても、それが「死」に向かうものである限り
「病」であるとして定義されてしまうのだな。うむ、納得した。
勝手に納得できたところで、結論はまだ出ない。
ただ、僕が自ら死に向かって手を上げることはないのだろうな。
いかにして死ぬか、その過程と選択こそが大切だと思っているから、
いきなり結果だけを求めることは、まずない。
本当は前向きに生を謳歌するのが一番なんだろうが、それは
記憶の限りに積み重ねてきた価値観を崩さないことには不可能だ。
僕の後ろ向き思考は、鴎外より漱石が好き、という思想と抱き合わせで、
棺桶まで僕の後をついてくるんだと思う。
暇に飽かせて療養に励むことを決め、ネット落ち宣言とか
出してみたりする今日この頃。
だけどパソコンに向かわないスローライフなんて、
本当に久しぶり過ぎて無理な気がしてくるんだぜ。
立花嬢の日記を見て思い出した。
ちなみに初聴時の感想は、「で、これどこのサークルの作品?」
すみませんバンプは好きですだいすきです、でも歌詞が若干その、
いわゆる一般人という、想像力ないしは創造力もとい妄想力を欠く
人々への配慮に欠けてはいませんでしょうか。
最近は大分大衆向けになったよね。街中でも普通に耳に入るし。
ピアスを外して丸二日が経過。
再び入れなおそうとしたところ、やけに強い手ごたえがあった。
原因は分かりきっていて、前回外した後──って言うか、最初に
ファーストピアスを外した時から、出血していたせいなんだ。
再び自分の手で薄皮を突き破る羽目になった。滝野ですコンバンハ。
確かに僕の体は貧弱だけれども、だからって皮膚の再生力まで
凡人以下とは思わなかったぜ……それともピアスを外す時に、
やり方がうまくなくて傷付けてしまったのかなぁ。
で、外出した先は病院だったりしたわけで。
心の風邪のことを、普通にWeb日記に書いていいものかなぁとは
毎度疑問に思うんだけれども、書かないでいるとまた忘れるので
つらつら文書を連ねておこうと思います。
その関係の本も読んで勉強中。
我が身と心に起きたことを、単なる災難と見るも、
いつかのモノダネとして温めるのも僕の勝手だ。
近頃は風呂場の剃刀に目が釘付けになる程度には疲れているけど、
感じるものは誘惑ではなく恐怖心であるので、たぶん問題ない。
精神は鬱状態でも、自傷や自殺に対する凄まじい抵抗心があるので、
そこんとこの理性を脳内物質の超分泌で吹っ飛ばされない限りは
分かりやすい自傷行為には出ないのだと思う。
代わりにあるのが、分かりやすい危険に対する無防備さ。
飛んでくるボールが避けられない、転んだ時に手をつけない。
不注意で自転車の目の前に飛び出すとかも、日常茶飯事だからね。
これは間接的自傷、鬱由来の現象として解説されるものらしいけど、
僕にとっては物心付いた時から当たり前のことなのでピンと来ない。
って言うかそうかこれ普通じゃなかったのか、みたいな。
もしかして僕は、生まれた時から死にたがりなのか。
とはいえ免許なんか取った日には確実に事故る!という確信ゆえに
教習所に通わぬことを誓い、車道を渡る時にはきっちり左右確認、
本当の死亡の危機に対してはきちんとした管理能力を発揮しているし、
何とも不思議な現象ではある。
そもそも鬱って何なんだろうか。
脳の分泌系に異常をきたす病、と解釈するのが目下最も妥当か。
だけど、それじゃ、人間の感情って一体何だ。
抗鬱剤でちょっと文章書く気力が湧いただけの患者が、
そんな疑問を投げかけておく。
「書くぞー」という方向性は、確かに僕が定めたものだけれど、
その気力は経口摂取された化学物質によってもたらされたもの。
ということは、今この文章を書く行動は、僕の意思で行われたことに
なるんだろうか?
間接的影響まで考慮するなら、薬自体は確かに僕の意思で摂取された
ものだが、強制的に注射されたとしても、僕は同じ行動を取っただろう。
緯度の高い土地に住んでいる人は、季節性の鬱病を発症しやすい。
例えば現代人の多くが幼少時の社会的学習によって、排泄行為を
恥ずかしくも気持ちがいいものだと感じているのと同じように、
僕らにとっては陽光を浴びることが「気持ちが上向く行為」として
遺伝子レベルで刷り込まれているんじゃないのか。
太陽を浴びると心が明るくなる、活動の気力が湧いてくる──
僕らが当たり前のものとして享受している、そんな「感情」の源泉が、
生物ホルモンと太陽光に制御された「何か」だと思うと少し気分が悪い。
生命とは、時間軸に沿って変遷する、不可逆・不可視の流動である。
鬱とは、生きる気力を失い、時に死にたいとさえ願う精神の病である。
死もまた生命にとって必然の流動形態の一つであると考えるのならば、
鬱はある意味、生き急ぎならぬ「生命の流れ急ぎ」であるとも言える。
しかしそれが個の生命の意思と相反するという事実は無視し難い。
生存したいという欲求に対して、正反対のベクトルを持つことは、
本当に「病」なんだろうかなぁ。
山あり谷あり、楽あれば苦あり、人間の感情が常に表裏一体であると
すれば、死の欲求は存在しない方がおかしいということになる。
そういえば、「病」も「死」も、正常な生存に支障がある
(または生存していない)状態を指す言葉だ。
ということは、「鬱≒死への欲求」が感情現象として普遍的な
存在であったとしても、それが「死」に向かうものである限り
「病」であるとして定義されてしまうのだな。うむ、納得した。
勝手に納得できたところで、結論はまだ出ない。
ただ、僕が自ら死に向かって手を上げることはないのだろうな。
いかにして死ぬか、その過程と選択こそが大切だと思っているから、
いきなり結果だけを求めることは、まずない。
本当は前向きに生を謳歌するのが一番なんだろうが、それは
記憶の限りに積み重ねてきた価値観を崩さないことには不可能だ。
僕の後ろ向き思考は、鴎外より漱石が好き、という思想と抱き合わせで、
棺桶まで僕の後をついてくるんだと思う。
暇に飽かせて療養に励むことを決め、ネット落ち宣言とか
出してみたりする今日この頃。
だけどパソコンに向かわないスローライフなんて、
本当に久しぶり過ぎて無理な気がしてくるんだぜ。
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